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歴史上の人物の名前といえば…を30集めました【一覧】

伊達政宗の像

「歴史上の人物」といわれたら、誰の名前が思い浮かぶでしょうか。人によってそれぞれ、思い入れのある人物もいれば、功績があっても好きになれない人物もいるかもしれません。

今回は、古墳時代から明治時代までの日本の歴史のなかで、名前を残してきた歴史上の人物について考えてみることにしましょう。

 

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歴史上の人物の名前 30【一覧】

 

卑弥呼

【読み】ひみこ

中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によれば、卑弥呼は倭国(わこく)の女王で、邪馬台国(やまたいこく)に住んでいました。
また、死亡したときには奴婢(ぬひ=奴隷階級)100人が殉葬されたと記述されています。

 

 

聖徳太子

【読み】しょうとくたいし

厩戸皇子(うまやどのおうじ、うまやどのみこ)が本来の名前であり、「聖徳太子」は死後100年以上経ってからの呼称です。
あるとき 10人が同時に話した言葉を、皇子はすべて漏らさずに聞き取り、それぞれに適切な答えを返したという故事があります。
これ以降、皇子は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)とも呼ばれるようになりました。

 

 

小野妹子

【読み】おのの いもこ

「妹子」という名前から男性であったとされることが多いのですが、女性であった可能性も多分にあります。

 

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中大兄皇子

【読み】なかのおおえのおうじ

一般的には「中大兄皇子」として知られていますが、天智天皇(てんちてんのう、てんじてんのう)のことです。
万葉歌人であり、次の歌が百人一首に収められています。

秋の田の
かりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ

 

 

中臣鎌足

【読み】なかとみのかまたり

中大兄皇子とともに「大化の改新(たいかのかいしん)」の中心人物で、後に藤原姓を賜ったので「藤原氏の祖」といわれます。

 

 

聖武天皇

【読み】しょうむてんのう

東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)、一般にいわれる「奈良の大仏」を建立しました。
在位中に災害や疫病が多発したので、仏教に深く帰依(きえ)するようになりました。

 

 

鑑真

【読み】がんじん

中国人の僧侶で、6度目の航海でようやく渡日し、唐招提寺(とうしょうだいじ)を開きました。
5回目の航海では、両目を失明しています。

 

 

菅原道真

【読み】すがわらのみちざね

九州の大宰府へ左遷された2年後に亡くなりましたが、死後に天変地異が多発したため「天神様」と恐れられました。

 

 

平清盛

【読み】たいらのきよもり

日本で初めて武力政権を成立させました。
平氏一門の棟梁(とうりょう)となり、政治の実権を握るまでになりましたが、源氏との抗争のなかで熱病によって亡くなりました。

 

 

源頼朝

【読み】みなもとのよりとも

頼朝は、弟である義経(よしつね)と範頼(のりより)の命を奪っています。

 

 

源義経

【読み】みなもとのよしつね

牛若丸(うしわかまる)という幼名を持つ戦(いくさ)の天才です。兄・頼朝の命により討たれるという最後は多くの同情を集め、「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉や、数多くの伝説や物語を生み出しました。

 

 

北条政子

【読み】ほうじょう まさこ

源頼朝の正室でしたが、とても嫉妬深い女性でした。頼朝が鎌倉幕府を開いてからは「御台所(みだいどころ)」、頼朝の死後には「尼御台(あまみだい)」と呼ばれました。

 

北条政子と源頼朝の像

 

 

新田義貞

【読み】にった よしさだ

源義貞(みなもとのよしさだ)が正式な名前です。1338年に戦死しましたが、義貞が身に付けていた兜が発見されたのは1656年のことでした。

 

 

足利尊氏

【読み】あしかが たかうじ

はじめは高氏(たかうじ)と名乗っていましたが、六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼした後に「尊氏」と改めました。

 

 

足利義満

【読み】あしかが よしみつ

室町幕府の第3代将軍で、邸宅を北小路室町へ移してからは「室町殿」とも呼ばれていました。鹿苑寺(ろくおんじ=金閣)を建立するなど、室町時代の文化の最盛期を築きました。

 

 

足利義政

【読み】あしかが よしまさ

室町幕府の第8台将軍で、元服すると義成(よししげ)を名乗りました。
慈照寺(じしょうじ=ひがしやまさんそう)や銀閣を建てるなど、東山文化を築きました。

 

 

織田信長

【読み】おだ のぶなが

幼名は「吉法師(きっぽうし)」で、元服すると「上総介信長(かずさのすけのぶなが)」と称しました。
「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」は江戸時代に松浦清(まつら きよし)が著した随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』に収録されているもので、信長本人の作ではありません。

 

 

武田信玄

【読み】たけだ しんげん

幼名は「太郎」で、元服して「晴信(はるのぶ)」と改めました。「信玄」は出家した後の法名(ほうみょう)です。
風林火山(ふうりんかざん)」の旗印を使用し、「甲斐の虎」と呼ばれたといわれています。

 

 

上杉謙信

【読み】うえすぎ けんしん

幼名は「虎千代(とらちよ)」で、長尾景虎(ながお かげとら)、上杉政虎(うえすぎ まさとら)、上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名前を改めています。
謙信(けんしん)は法名です。

 

 

伊達政宗

【読み】だて まさむね

幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」で、元服して「伊達藤次郎正政宗」を名乗りました。
幼少の頃に疱瘡(ほうそう=天然痘)によって隻眼(せきがん)となり、後に独眼竜と呼ばれました。

 

 

明智光秀

【読み】あけち みつひで

「三日天下(みっかでんか、みっかてんか)」という表現がありますが、光秀が亡くなったのは本能寺の変から十数日後のことです。

 

本能寺跡

 

 

豊臣秀吉

【読み】とよとみ ひでよし

秀吉は多指症(たししょう=指が6本以上となる疾患)で、右手の親指が1本多かったといわれています。

 

 

徳川家康

【読み】とくがわ いえやす

家康は新しいもの好きで多くの趣味を持っていましたが、芸事は好まなかったといわれています。
東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化されて、信仰の対象となりました。

 

 

杉田玄白

【読み】すぎた げんぱく

前野良沢(まえの りょうたく)らと「ターヘル・アナトミア」を和訳して刊行した『解体新書(かいたいしんしょ)』は、日本では初めての西洋語からの本格的な翻訳書です。

 

 

伊能忠敬

【読み】いのう ただたか

忠敬は後半生で日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』を作成しました。
測量を開始したのは忠敬が55歳の年(1800年)で、地図が完成したのは死後の1821年のことでした

 

 

平賀源内

【読み】ひらが げんない

医者、蘭学者、本草学者、発明家、俳人、戯作者、浄瑠璃作者などとして知られた、江戸時代の天才です。
晩年には、酔っていたための勘違いから2人を殺傷して投獄され、破傷風が原因で獄死したといわれています。

 

 

坂本龍馬

【読み】さかもと りょうま

幕末における薩長同盟、大政奉還に関して、とても大きな働きをしました。
京都の近江屋(おうみや)で暗殺されたのは、満31歳のときでした。

 

 

勝海舟

【読み】かつ かいしゅう

幼名は「麟太郎(りんたろう)」で、明治維新後に「安芳(やすよし)」と改名しました。
「海舟」は、佐久間象山の書いた「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」という額から思いついた号です。

 

 

西郷隆盛

【読み】さいごう たかもり

隆盛の肖像画は数多く描かれましたが、現在でも写真は確認されていません。

 

 

徳川慶喜

【読み】とくがわ よしのぶ

慶喜は江戸幕府の第15代将軍で、歴史上最後の征夷大将軍です。
余生は写真、狩猟、囲碁などの趣味に没頭した生活を過ごしました。
豚肉が大好物で、豚一様(ぶたいちさま:慶喜は一橋家を相続)と呼ばれました。

 

煉瓦造りの建物

 

【関連項目】

⇒ 江戸時代の将軍15人のプロフィール

⇒ 鎖国の理由はこの2つ

 

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