源義経の生涯と伝説 -牛若丸からジンギスカンまで-

中尊寺金色堂

源義経という名前からは何が思い浮かぶでしょうか。

牛若丸、弁慶、さらにはジンギスカンという人もいるかもしれません。そして、歴史上の人物の中でも有名で人気も高いといえるでしょう。

しかし義経の生涯に思いをやると、どうしても悲劇的なイメージがつきまといます。ここから「判官贔屓」という言葉も生まれていますし、多くの物語や伝説がつくられてきました。

今回は、源義経の生涯と伝説についてみていくことにしましょう。

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源義経の生涯

源義経(みなもとのよしつね)については、数多くの物語、伝説、エピソードがあります。

そして何といっても、その悲しい最後が人々の胸を強く打ちます。

ではこれから、義経の生涯についてみていきましょう。

 

義経の一生

多くの物語などを持つ義経ですが、歴史に残されている義経の確かな記録はわずか 9年間のことです。

義経の名前として「九朗(くろう)」というものを目にすることも多いのですが、これは仮名(けみょう=通称)です。

平氏との戦いでは最大の功労者とされながらも、奥州の衣川館(ころもがわのたち)で自害して一生を終えました。

享年 31…

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生まれ

義経は源義朝(みのもとのよしとも)の 9男として生まれ、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)とは異母兄弟です。

 
頼朝
(3男)
源義朝 由良御前
(ゆら ごぜん)
義経
(9男)
常盤御前
(ときわ ごぜん)

平治の乱で父・義朝は敗死し、兄・頼朝は伊豆国(いずのくに)へと流されました。

その後、義経が兄と対面したのは 22歳(数え、以下同じ)のことでした。

牛若丸 

物語などでよく知られている「牛若丸(うしわかまる)」は、義経の幼名です。

牛若丸は 11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、遮那王(しゃなおう)という稚児(ちご)名を名乗りました。

その後、遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出ました。

桃の節句(上巳:じょうし)に鏡の宿で自ら元服を行い、奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って平泉に向かいました。

 

義経の戦い

治承4年(1180年)に兄・頼朝が挙兵すると、義経はすぐに馳せ参じました。

その後は、木曽義仲の追討一の谷の戦い壇ノ浦の戦いなど、多くの戦いで目覚ましい活躍をみせます。そして、ついに平氏は滅びました。

しかし、義経と兄・頼朝の関係が徐々に崩れてゆきました。

武蔵坊弁慶の像

 

義経の刀と家紋

義経の刀として知られているのは、源氏に代々伝わる太刀(たち)です。この刀は名前を何度か変えています。

もともとの名前は「膝丸(ひざまる)」で、その後「蜘蛛切(くもきり)」、「吠丸(ほえまる)」、「薄緑(うすみどり)」となりました。

義経が初めて手にしたときは吠丸であり、薄緑は義経が名付けたものです。

また、家紋については竜胆(りんどう)あるいは笹竜胆といわれていますが、これは定かではありません。

一説によれば、義経の時代には家紋を掲げて戦を行なう習慣はなかったともいわれています。

 

義経の妻

義経の正妻は郷御前(さとごぜん)です。この女性とは、兄・頼朝の取持ちによって結婚しました。

また、義経のまわりには静御前(しずかごぜん)、蕨姫(わらびひめ)の名前がありますが、この二人は愛妾(あいしょう=あいじん)ということになります。

 

義経の最後

平氏との戦いでは最大の功労者となりながらも、兄の頼朝と対立するようになり、ついには朝敵とされてしまいます。

  • 頼朝の許可を得ないで、朝廷から官位を受けた
  • 壇ノ浦の戦いで、宝剣(三種の神器の一つ)を入手できなかった

このようなことが、頼朝の怒りを買うことになった大きな理由と考えられます。

また、武家政権の確立を目指している頼朝にとって、義経は最大の脅威であったのかもしれません。

壇ノ浦の戦いの後に、義経は鎌倉へ入ることを許されませんでした。

また、腰越状(こしごえじょう)という弁明の文書を頼朝に送りましたが、聞き入られることはありませんでした。

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義経は再び奥州の藤原氏を頼って身を寄せましたが、藤原秀衡の子・泰衡(やすひら)の兵に襲われ、正妻の郷御前と 4歳の娘を殺害した後に自害しました。

義経が自刃したときに使ったのは,今剣(いまのつるぎ)と呼ばれる短刀でした。

義経の最期は世の中の多くの人々の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉が生まれるとともに、多くの物語や伝説がつくられることになったのです。

 

年表

1159年
(1歳)
源義朝の 9男として誕生
1169年
(11歳)
鞍馬寺へ預けられ稚児となる
1174年
(16歳)
桃の節句に鏡の宿にて自ら元服する
鞍馬寺を出て奥州・平泉へ下る
1180年
(22歳)
兄・頼朝の挙兵に駆けつける(黄瀬川で頼朝と対面する)
1184年
(26歳)
源義仲を追討して入京
一の谷の戦いで勝利する
郷御前(河越重頼の娘)と結婚する
1185年
(27歳)
屋島の戦いで勝利する
壇ノ浦の戦いで勝利し、平氏は滅亡する
頼朝に鎌倉入りを拒否され、腰越状を送る
1187年
(29歳)
奥州へ落ち延びる
189年
(31歳)
襲撃を受け衣川館で自害する

※ 推定が含まれています。また、 年齢は数え年です。

鞍馬寺

 

 

源義経の伝説

義経の死後、様々な伝説が生まれ多くの物語が作られてきました。その中でも

  • 五条大橋での武蔵坊弁慶との出会い
  • 衣川の戦いでの弁慶の立ち往生

などは有名で、私たちは絵本などで子供の頃から親しんできました。

また、伝家の兵法書『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』を陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)の鬼一法眼(きいちほうげん)から譲り受けたという伝説もあります。

さらに、いくつかの義経にまつわる伝説をみていきましょう。

天狗伝説

義経が鞍馬寺にいる頃に、天狗に剣術などを習っていたという伝説です。

これは、五条大橋での弁慶と出会ったときに、義経は橋の欄干をとても身軽に飛び回ったという話と通じるものがあります。

さらに、壇ノ浦の戦いで有名な「八艘飛び(はっそうとび)」は、義経が身軽に船から船へと飛び移ったという話です。

また天狗については、山伏、山伏に扮した鞍馬山の大天狗、天狗の面を被った源氏のゆかりの者などの色々なバリエーションがあります。

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北方伝説

これは、義経は衣川では死んでおらず、奥州からさらに北方へ逃げたというもので、北行伝説、不死伝説ともいわれています。

この伝説にもとづいて、1799年(寛政11年)に蝦夷地のピラトリに義経神社が建てられました。

義経の首は酒に浸した状態で43日間かけて鎌倉に送られたと伝えられていますが、これが生存説を生むことにもつながっています。

 

ジンギスカン伝説

前述の北方伝説の延長ともいえるのが、義経が蝦夷地から大陸へ渡ってジンギスカン(チンギス・ハン、チンギス・カン)になったというジンギスカン伝説です。

明治時代には、末松謙澄(すえまつ けんちょう=ジャーナリスト、歴史家、政治家)が「義経=ジンギスカン説」をとなえた『義経再興記』は出版されるとブームとなりました。

また大正時代には、小谷部全一郎(おやべ ぜんいちろう=牧師、教師、アイヌ研究家)が著した『成吉思汗ハ源義經也』が大ベストセラーになりました。

義経とジンギスカンには共通することもあり、日本人の判官贔屓からすれば夢のある伝説といえるでしょう、

しかし後の研究結果から、残念ながら現在では「義経=ジンギスカン説」は学術的に否定された事実となっています。

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