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三大随筆【枕草子、方丈記、徒然草】の冒頭を覚えていますか?

下鴨神社の紅葉

評論や小説などは、読み始める前に少し構えてしまうようなところがあります。それに比べて、随筆、エッセイとなると気楽に接することができます。そして、日本文学には「三大随筆(集)」といわれるものがありますね。

このページでは、この三大随筆について確認していきましょう。

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三大随筆とは?

日本の三大随筆(集)を古い年代順に並べると次のようになります。

  • 枕草子(まくらのそうし)
  • 方丈記(ほうじょうき)
  • 徒然草(つれづれぐさ)

枕草子以前の文学は和歌集や物語が中心で、随筆と呼べるものは見当たりません。また、徒然草以降には『玉勝間(たまかつま)』や『花月草紙(かげつそうし)』といった随筆が江戸時代に書かれました。もし「五大随筆」を選ぶのであれば、この2つを加えることになるでしょうが、やはり先の3つの評価が上回っています。

それでは、それぞれの随筆についてみていくことにしましょう。

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枕草子とは?

枕草子(まくらのそうし)』は、平安時代の中頃に清少納言により執筆されたといわれる随筆です。もともとは、「まくらそうし」と呼ばれていました。

枕草子は、『源氏物語』と並んで平安時代の文学を代表する作品で、、後の俳諧や仮名草子(かなぞうし)に大きな影響を与えたといわれています。

では、枕草子について詳しくみていきましょう。

 

枕草子の冒頭

原 文 春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは
少し明りて、
紫だちたる雲の
細くたなびきたる。
現代語訳 春は、夜が明ける頃
(がいい)。
だんだんと白くなっていく
山際が少し明るくなり、
紫がかった雲が
細くたなびいている
(のがいい)。

 

作者

清少納言(せいしょうなごん=966年頃~1025年頃)は、平安時代の歌人、作家であり、博学で才気あふれる女性であったといわれています。

「清少納言」は女房(にょうぼう=貴族の侍女)としての名前で、は「清原」という姓に由来しますが、少納言の由来は不明です。実名が「諾子(なぎこ)」という説もありますが、実証されてはいません。

ライバルが『源氏物語』を書いた紫式部(むらさきしきぶ)であったといわれますが、2人は面識がなかったというのが現在では定説になっています。

 

成立時期

跋文(ばつぶん=あとがき)には、996年頃に源経房(みなもとのつねふさ)が作者の家から初稿を持ち出して世に広めたと記載されています。しかし、その後も加筆されていたと考えられています。

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特徴

物事に対する鋭い観察力と作者の洗練されたセンスが融合して、独特な美の世界を作り上げています。

作品は約300段に及び、次のように分類されることが多くみられます。

  • 類聚(るいじゅう)章段
  • 随想章段
  • 回想章段(日記章段)

そして、源氏物語が「あはれの文学」と言われるのに対して、枕草子は「をかしの文学」と表現されています。「もののあはれ」はしみじみとした情緒の美、「をかし」は明るく知性的な美とされています。

十二単の女性

 

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方丈記とは?

方丈記(ほうじょうき)』は、鎌倉時代に鴨長明(かものちょうめい)が執筆したもので、中世文学の代表的な随筆とされています。

 

方丈記の冒頭

原 文 ゆく河の流れは絶えずして、
しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたる
ためしなし。
現代語訳 川の流れは絶えることがなく、
しかも元の水ではない。
淀みに浮かんでいる泡は、
一方で消えては
他方で生じたりと
長い間そのままでいることは
ない。

 

作者

鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら=1155年~1216年7月26日)は、平安時代末から鎌倉時代にかけての歌人で、随筆家といわれることもあります。

神職において出世が叶わなかったことから出家して閑居しました。出家してからは「連胤(れんいん)」という名前を名乗りましたが、俗名を音読みした鴨長明(かものちょうめい)の名前で知られています。

 

成立時期

方丈記の末尾に「于時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」と書かれていることから、1212年(建暦2年)に成立したとされています。

 

特徴

仮名と漢字の混じった和漢混淆文(わかんこんこうぶん)で書かれた文学作品としては最初のものです。

冒頭で移りゆくもののはかなさを、その後に生きた時代の災厄を、後半では草庵での生活について記述しています。これらの内容から、「無常観の文学」「隠棲文学の祖」ともいわれます。

源光庵

 

 

徒然草とは?

徒然草(つれづれぐさ)』、吉田兼好よしだけんこう=兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされている随筆です。

執筆後の約一世紀は注目されませんでしたが、江戸時代になってから親しみやすい古典文学として愛読されるようになり、その後の文化に大きな影響を与えました。

 

徒然草の冒頭

原 文 つれづれなるままに、
日ぐらし硯に向かひて、
心にうつりゆく
よしなしごとを
そこはかとなく書き付くれば、
あやしうこそ物狂ほしけれ。
現代語訳 やることもなく手持無沙汰に、
一日中硯(すずり)に向かって、
心に浮かんでは消える
とりとめもないことを
これといったつもりもなく
書いていると、
何ともおかしくなってしまう

 

作者

吉田兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての官人で、歌人、随筆家です。本名は卜部兼好(うらべ かねよ、うらべのかねよし)です。出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、兼好ということもあります。

一般には1283年(弘安6年)頃に生まれ、30歳前後で出家したとされています。しかし、その生涯について明らかでない部分もあります。

 

成立時期

徒然草の成立時期については多くの説があります。主流となっているのは、鎌倉時代末の 1330年8月~1331年9月頃にまとめられたとする説です。しかし確証はなく、 兼好が書いたことを疑う説もあります。

 

特徴

序段を含め244段からなる徒然草の内容は多岐にわたっています。これは、兼好が歌人、能書家、古典学者などであったことによります。また、仁和寺(にんなじ)に関した説話が多く含まれています。

和漢混淆文と仮名文字中心の和文が混在していて、文学上は隠者文学の一つに位置付けられています。

仁和寺

 

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