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方丈記(ほうじょうき)の作者はどんな人?

下鴨神社

「ゆく川の流れは絶えずして…」で始まる方丈記は、少なくとも一度は誰もが接したことがある作品といえるでしょう。

しかし、中学生や高校生の頃に読んだとしても、「これは面白い!」という感想を持つことは、あまりないでしょう。ましてや、教科書に載っているから勉強のために仕方なく… という姿勢ではなおさらです。

ところが、年月が経って何気なく読んでみると、意外に引き込まれてしまって一気に読み終えてしまったりします。冒頭の「ゆく川の流れは…」の落ち着いた調子が続くのかと思いきや、大火・つむじ風・地震といった天変地異についての記述に目を奪われてしまいます。

このページでは、この方丈記の作者の鴨長明がどのような人であったのかについて考えていくことにしましょう。

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方丈記とは?

方丈記は、鎌倉時代に鴨長明(かもの ちょうめい)によって書かれた文学作品です。彼は京の日野山に隠棲して方丈記を記しましたが、その庵が一丈(約 3m)四方であったことから、みずから方丈記と名づけました。

清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』、吉田兼好(よしだ けんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』とあわせて、日本三大随筆と呼ばれています。

特徴としては、和漢混交文(わかんこんこうぶん=仮名と漢字を混ぜた文体)で書かれていることが挙げられます。

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方丈記の内容

方丈記の内容を簡単に見てみましょう。

  • 序文(ゆく川の流れは…)
  • 安元の大火
  • 治承の辻風
  • 福原京遷都
  • 平安京遷都
  • 養和の飢饉
  • 元暦の地震

このように、前半は天変地異などが中心に書かれています。これらは、歴史的史料としても有益なものとなっています。

後半は隠棲してからの庵での生活を中心に記述されています。このことから、方丈記は無常観の文学隠棲文学の祖と言われることが多い作品となっています。

 

下鴨神社

 

方丈記の作者

作者の経歴

まずは、作者の経歴をみていきましょう。

  • 1155年 京都で生まれる
  • 1161年 従五位下(じゅごいげ)に叙爵(じょしゃく)される
  • 1188年 千載集(せんざいしゅう)に一首が入集する
  • 1201年 和歌所寄人(わかどころよりうど)に任命される
  •  〃  河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の職に就けず
  • 1211年 鎌倉へ赴くも、将軍の和歌の師として受け入れられず
  • 1212年 方丈記が成立
  • 1216年 死去

年代からも分かるように、長明は平安時代末に生まれてから、武者の世への変化、源氏と平氏の争乱、鎌倉幕府の成立を目にしてきています。

まさに、「激動の時代」を生きた人といえるでしょう。

 

糺の森

 

作者の和歌

俊恵(しゅんえ)の門下で和歌を学んだ長明は、33歳の頃に『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』に一首が入集しました。

思ひあまり
うちぬる宵のまほろしも
浪路をわけてゆきかよひけり

 

その後、和歌所寄人(わかどころよりうど=和歌の選定などを担当する職員)に任命されました。また、『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』には次の 10首が入撰しています。

秋風の
いたりいたらぬ 袖はあらじ
ただ我からの 露の夕暮

 

ながむれば
ちぢに物思ふ 月にまた
我が身ひとつの 峯の松風

 

松島や
潮くむ海人 秋の袖
月は物思ふ ならひのみかは

 

枕とて
いづれの草に 契るらむ
行くをかぎりの 野べの夕暮

 

袖にしも
月かかれとは 契りおかず
涙は知るや 宇津の山越え

 

たのめお
人も長等(ながら)の 山にだに
さ夜更けぬれば 松風の声

 

ながめても
あはれと思へ おほかたの
空だにかなし 秋の夕暮

 

夜もすがら
独りみ山の 真木の葉に
くもるも澄める 有明の月

 

見ればまづ
いとど涙ぞ もろかづら
いかに契りて かけ離れけむ

 

石川や
瀬見の小川の 清ければ
月も流れを たづねてぞすむ

 

長明には、歌集の『鴨長明集』、歌論書の『無名抄(むみょうしょう)』、また仏教説話集の『発心集(ほっしんしゅう)』という作品があります。

また、琵琶(びわ)を中原有安(なかはらのありやす)から学んでおり、腕に自信があったといわれています。

 

下鴨神社の鳥居と紅葉

 

作者の後半生

五十の春を迎へて家を出で、世を背けり

つまり、長明は 50歳にして出家をし世を捨てました。その理由としては、次の記述が該当するのでしょう。

折々のたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ

その時その時の思い通りにならないことから、自然とはかない運命を悟ったという意です。

「折々のたがひめ」には、河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)となれなかったことも含まれているはずです。賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)の禰宜の長男として産まれた長明にとっては、家職を継ぐことができなくなったことになります。

また、将軍である源実朝(みなもとのさねとも)に和歌の指南をすることも叶いませんでした。これらのことから、「短き運を悟りぬ」という記述が残されたのでしょう。

 

下鴨神社

 

まとめ

鴨長明の経歴を知り、その人となりに触れてから方丈記を読み返してみると、今までとは違った感慨も起こることでしょう。

方丈記は淡々と綴られているかのようにも思えますが、その実は奥深いものを持っている作品であると私は感じています。

 

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