宮沢賢治の詩で有名なのは「雨ニモマケズ」ですが…
宮沢賢治の詩で有名なのは、何といっても「雨ニモマケズ」でしょう。しかし、この詩以外にも素晴らしいものが数多くあります。
『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などの童話で独特の世界を創り上げた賢治ですが、詩においても彼ならではといえるものばかりです。
このページでは、宮沢賢治の残した詩のいくつかをみていくことにしましょう。私も何度も読み返しているものばかりですので、是非チェックしてみて下さい。
雨ニモマケズ [全文]
まずは、雨ニモマケズを原文で読んでみましょう。
雨ニモマケズ【原文】
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
原文はカタカナで表記されていて、私の中ではこれが賢治らしさの象徴にもなっています。
しかし、小学生のお子さんからは「カタカナで読みづらい」という声を聞くことがあります。これによって賢治の世界から遠ざかってしまうのは、とても惜しいことだと私は考えています。
そこで、偉大な先人の作品に手を加えるのは気が引けるのですが、あえて「ひらがな版」をつくってみました。カタカナを漢字に置き換えた部分や現代表記に変更した部分もあります。
少しでも賢治に触れる機会が増えればという思いからのことですので、何卒ご容赦下さい。
雨ニモマケズ【ひらがな版】
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
慾(よく)はなく
決して怒(いか)らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合(よんごう)と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定(かんじょう)に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の蔭(かげ)の
小さな萓(かや)ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病(かんびょう)してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を(背)負い
南に死にそうな人あれば
行って怖(こわ)がらなくてもいいと言い
北にけんかや訴訟(そしょう)があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに「でくのぼう」と呼ばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
私はなりたい
南無無辺行菩薩(なむむへんぎょうぼさつ)
南無上行菩薩(なむじょうぎょうぼさつ)
南無多宝如来(なむたほうにょらい)
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
南無浄行菩薩(なむじょうぎょうぼさつ)
南無安立行菩薩(なむあんりゅうぎょうぼさつ)
補足
「雨ニモマケズ」は題名ではなく、本文の最初の一文です。これが詩の題名として定着しています。
宮沢賢治の代表作な詩とされていますが、詩ではないとする解釈もあります。
賢治が亡くなってから発見された「雨ニモマケズ手帳」といわれているものに書かれていたもので、後になって公表されたものです。そして、この手帳には賢治の願望、自省などが素直に表現されています。
つまり、雨ニモマケズは生前に刊行された詩集『春と修羅』などとは違って、賢治が公表するつもりで書いたものではないといえます。
終盤の「ヒデリノトキハ…」の部分は、手帳には「ヒドリノトキハ…」と書かれています。しかし、現在では研究の結果として、ほとんど前者が採られています。
なお、「ワタシハナリタイ」までは手帳の右ページに、以後の「お題目」は同じ見開きの左ページに記されていますが、これらすべてを合わせて「雨ニモマケズ」としてとらえるべきと私は考えます。
私はこの詩を読むたびに、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」の部分では『グスコーブドリの伝記(賢治の童話)』が、「ミンナニデクノボートヨバレ」の部分では『虔十公園林(けんじゅうこうえんりん=賢治の童話)』が思い浮かびます。
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
註
※あめゆきとつてきてください
※あたしはあたしでひとりいきます
※またひとにうまれてくるときは
こんなにじぶんのことばかりで
くるしまないやうにうまれてきます
【補足】
賢治の生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』の「無声働突」篇に収められている詩です。
これも賢治の代表作として高い評価を受けていて、高等学校のいくつかの教科書に採用されています。
この詩は、賢治の妹のトシが24歳で亡くなったときのもので、この他にも妹に関する詩をいくつか書いています。
そして、この後半年の間、賢治は詩を作らなかったといわれています。
「Ora Orade Shitori egumo」は、「おら おらで 一人 逝くも」と解釈されます。
わたくしどもは
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壼にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
【補足】
「わたくしどもは」も題名としてつけられたものではありません。
賢治の没後に刊行された詩集『詩ノート』に収められました。
私は、詩というよりも小説のような印象を受けます。そして、悲しい結末は賢治の童話のそれを思わせます。