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江戸時代の将軍15人のプロフィールをまとめました

 

江戸時代は徳川時代、江戸幕府は徳川幕府といわれるように、260年以上続いた時代を担ってきたのが徳川将軍家であり、15人の将軍たちです。

その将軍とは、それぞれどのような人たちだったのかをみていきましょう。

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将軍15人の一覧表

 

名前 在職期間 就任年齢 享年
1 家康(いえやす) 2年2ヶ月 62  75
2 秀忠(ひでただ) 18年3ヶ月 27 54
3 家光(いえみつ) 27年9ヶ月 20 48
4 家綱(いえつな) 28年9ヶ月  11  40
5 綱吉(つなよし) 28年5ヶ月 35 64
6 家宣(いえのぶ) 3年5ヶ月 48 51
7 家継(いえつぐ) 3年1ヶ月  5 8
8 吉宗(よしむね) 29年1ヶ月 33 68
9  家重(いえしげ)  14年6ヶ月  35 51
10 家治(いえはる)  26年4ヶ月  24 50
11 家斉(いえなり) 50年 15 69
12 家慶(いえよし) 16年2ヶ月  45 61
13 家定(いえさだ) 4年8ヶ月  30 35
14 家茂(いえもち) 7年9ヶ月 13 21
15 慶喜(よしのぶ) 1年  30 77

 

在職期間が1年から50年までと様々ならば、将軍に就任した年齢も5歳から62歳までと幅がありますね。なかでも、8歳(数え年)で夭折した7代将軍の家継と、一番長生きをした15代の慶喜が対照的です。

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15人それぞれのプロフィール

それでは、一人ずつみていきましょう。

 

家康

戦国の世を終わらせ、260年以上におよぶ江戸時代の基礎をつくった初代の征夷大将軍です。織田信長、豊臣秀吉の統治を見てきたからこそ、長年にわたる「天下泰平」の世を生み出すことができたのでしょう。

死因に関しては、従来は鯛の天ぷらによる食中毒とされていましたが、現在では胃がんとする説が有力となっています。

 

秀忠

家康との二元体制をとり、武家諸法度(ぶけしょはっと)、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)などの制定に励みました。

武将としての評価は高くないものの、徳川幕府の基盤を盤石なものとした功績はゆるぎのないものでしょう。

 

家光

家光は、幕藩体制を完成に導いたとして高い評価を受けています。また、松平信綱をはじめとする有能な重臣たちにも恵まれていました。

戦国時代を生き抜いた武将たちから話を聞くのを好み、特に伊達政宗を尊敬していたといわれています。

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家綱

釣りや絵画を好む温厚な性格で、政務は「左様せい」と老中に任せていたことから、『左様せい様』と呼ばれていたそうです。

11歳で将軍となり、由井正雪の乱や明暦の大火などがあったものの、29年近くの治世は安定していました。

 

綱吉

悪法といわれる「生類憐みの令」が有名ですね。本来の目的は、当時多かった捨て子の対策でした。やがて、犬の虐待者を密告したものに賞金を与えるなどしたため、一般からの支持を得られなくなりました。

また、綱吉の治世に起こった有名なできごとには、赤穂浪士の討ち入りがあります。藩主の浅野長矩に即日切腹を命じたのも、綱吉の印象をよくないものにしているかもしれません。

 

 

家宣

悪法とされる「生類憐みの令」を廃止したことなどによって、一般民衆の人気は高かったそうです。新井白石などの人材の登用に尽力しましたが、当時に流行したインフルエンザ類により、治世は3年5ヶ月ほどで終わることになりました。

 

家継

史上最年少で征夷大将軍となったものの、満年齢では7歳に届かずに夭折しました。死因は、風邪をこじらせたものといわれています。

家継の治世に起きたできごとでは、江島生島(えじまいくしま)事件が有名です。大奥の江島が歌舞伎役者の生島と遊興したことが契機となって多くの処罰者を出しました。江島と生島の処罰は遠島(最終的に江島は高遠藩のお預け)、江島の兄は斬首となっています。

 

吉宗

米相場を中心に財政改革を行なっていたため、米将軍と呼ばれていました。鷹狩などの武芸を好んだことから、豪放な印象のある将軍ですね。

ベトナムに象を注文して輸入し、長崎から江戸までを陸路で運ばせました。このことから江戸では「象ブーム」が起こったそうです。

大奥の女性を経費削減のために解雇するにあたって、あえて美女のみを解雇したそうです。その理由は「美女であれば他に働き口もあるだろうし、縁談にも巡り会えるだろう」というものでした。

 

家重

言語が不明瞭であったといわれています。文武を怠るなどのことから、老中から廃嫡されかかったこともありました。

家重が女性であったという説がありますが、あくまでも推測とされています。女性とする理由としては、次のようなものがあります。

  • 極度の頻尿とされているが、女性の方がその可能性は高い
  • 吉宗に男子が誕生する前に、女子を嫡男とすることによって自身の将軍後継の可能性を高めようとした
  • 言語不明瞭とされるのも、女子であることを隠すための策であった
  • 遺骨の形態が女性のものとみられる
  • 家重の遺骸は正座の姿勢で埋葬されていたが、これは女性の埋葬の形である

 

家治

幼少より聡明であったことから、祖父の吉宗の寵愛を受けて育ちました。文武に優れていたとされますが、吉宗の影響によるものでしょう。

幕政を老中の田沼意次に任せて、将棋などの趣味の分野に没頭したため、暗君、無能といった評価を受けることが多い将軍です。

 

 

家斉

家治の急死により、15歳で将軍職に就きました。

贈賄、収賄を公認するとともに、自らも贅沢な生活を送るようになっていきました。しかし、最期は誰にも気づかれずに息を引き取ったといわれています。

 

家慶

趣味に没頭するタイプで、家臣が意見を述べても「そうせい」としか言わなかったため、『そうせい様』と呼ばれていました。

14男13女をもうけましたが、ほとんどが早世してしまい、20歳を超えたのは家定だけでした。その家定も、35歳でこの世を去っています。

 

家定

幼少から病弱で、脳性麻痺であったとも言われています。

菓子を作るのが趣味で、「イモ公方」と呼ばれたこともありました。しかし、自分で料理などをしたのは毒殺などを恐れてのことともいわれています。

 

家茂

13歳で将軍となり、21歳の若さでこの世を去っています。

甘いものをとても好み、31本の歯のうち30本は虫歯であったそうです。この虫歯が家茂の体力を奪うことになり、死因とされる脚気衝心(かっけしょうしん)につながったといわれています。

 

 

慶喜

「神君の再来」と期待されながらも、大政奉還によって政権の返上を行なった、歴史上最後の征夷大将軍です。

戊辰戦争中の戦意喪失ともとれる行動が、朝敵として名を残すことを恐れたためとするなら、その根底にあるのは幼少の頃から学んできた水戸学でしょう。

 

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