七夕のそうめんや短冊の由来を知っていますか?
七夕という行事は、夢があって良いですね。織女と牽牛が一年に一度しか会えないという話は切ないですが、願いごとをかなえてくれるということに楽しみを見出すことができます。
このページでは、七夕のそうめんと七夕飾りの短冊の由来をみていくことにしましょう。
七夕のそうめんの由来は?
七夕とそうめんの結びつきに深く関係しているのは、乞巧奠(きこうでん)という行事です。これは中国から日本に伝わったもので、奈良時代から宮中や貴族の家で行われていました。
具体的には、7月7日の夜に、織女(おりひめ=織姫)と牽牛(けんぎゅう)が逢うことを祈ったり、裁縫・染織・詩歌などの技能の上達を願いました。この織女は機織り(はたおり)がとても上手な娘であったことから、裁縫などの上達を願う場合の信仰対象となりました。
そして江戸時代になると、幕府が七夕を含む5つの節句を「五節句」という公的な行事として定めました。このことから七夕は一般の庶民の間にも広まって、手習い事などの「願掛け(がんかけ)」としての面も強調されるようになりました。
その願掛けをする際の供え物として、そうめんが選ばれるようになりました。これは、細くて長いそうめんを糸に見立てて、裁縫の上達を祈願したためです。
そうめんの表記には、「索餅」、「索麺」、「素麺」というものがあり、現在は素麺が定着しています。しかし、江戸時代の末頃までは表記に混乱がみられます。また、それぞれが何を示していたのか不明な点もあります。それぞれの例を挙げておきましょう。
- 索餅(さくべい)…奈良時代に中国から伝わった唐菓子で、中国式の細長い揚げパンのようなものと考えられています。
- 索麺(さくめん)…室町時代の頃には、現在のそうめんに近いものが食べられていたと考えられています。
- 素麺(そうめん)…江戸時代に使われるようになった表記です。
七夕の短冊の由来は?
現在は、願いごとを書いた短冊(たんざく)を笹竹に飾ることは、日本で全国的に行われています。しかし、七夕の行事を行なっている中国、韓国、ベトナムなどの他の国々では見られません。
また、短冊などの飾り物をする笹竹が使われ始めたのも、そうめんを供え物とするようになった江戸時代以降のことです。浮世絵の『市中繁栄七夕祭』(歌川広重が描いた名所江戸百景のうちの一つ)にも、短冊をはじめ様々な飾り物が付いた笹竹が確認できます。
しかし、江戸時代以前のものには、このようなものが見当たらず、夏越の大祓(なごしのおおはらい)の茅の輪の左右に立てる笹竹にちなんだものと考えられます。
先に述べたように、乞巧奠(きこうでん)の行事には「願掛け」の要素も含まれていたため、願いごとを書いた短冊を笹竹に結び付けるようになったのです。
「たなばたさま」の歌の中にもある「五色の短冊」の色は、中国の思想である五行思想(ごぎょうしそう=万物は木・火・土・金・水の5つの元素からできているという説)に由来しています。その5つに対応する色は、青(緑)・紅・黄・白・黒です。ただし、中国では五色の短冊ではなく五色の糸を使います。
そして、短冊の五色は仏教とも関わりがあります。旧暦が使われていた時代には、七夕の7日とお盆の15日は日付も近く、七夕はお盆と関わりのある行事でした。
お盆や施餓鬼(せがき)の法要で使われる施餓鬼幡(せがきばた)も五色で、基本的に青・黄・赤・白・黒とされています。実際には、青のかわりに緑、黒のかわりに紫が使われ、お寺で見かける五色幕の色となります。なお、仏教における五色は如来の精神や知恵を表わしているといわれます。
七夕が終わると、以前には飾りを付けたままの笹竹を川や海に流しましたが、近年は環境の問題からもあまり行われなくなりました。私は子供の頃に七夕飾りを川に流したことがありますが、そのときの「七夕は終わってしまったんだ」という何とも寂しい気持ちは未だに覚えています。
まとめ
- 七夕は中国の乞巧奠(きこうでん)という行事の影響を強く受けていて、細くて長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願するため、その際の供え物としてそうめんが用いられるようになりました。
- 笹だけに願いごとを書いた短冊を飾り付けるようになったのは江戸時代以降のことで、この風習は日本以外の他国ではみられないものです。