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徒然草(つれづれぐさ)の作者はどんな人?

緑色のもみじ

徒然草の「つれづれなるままに…」という冒頭部分は、誰でも覚えているのではないでしょうか。

しかし、他の部分はあまり記憶に残っていなかったりします。また、学校で「古典」の勉強の素材として接するせいか、「面白い随筆」という印象もあまりないかもしれません。

そのような徒然草も、後になって何気なく読むと、時間を忘れて読みふけってしまうような魅力にあふれていることに気が付きます。

このページでは、この徒然草の作者の吉田兼好がどのような人であったのかについて、みていくことにしましょう。

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徒然草とは?

徒然草(つれづれぐさ)は、鎌倉時代に吉田兼好(よしだ けんこう)によって書かれたとされる文学作品です。

清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』とあわせて、日本三大随筆と呼ばれています。

特徴としては、和漢混交文(わかんこんこうぶん=仮名と漢字を混ぜた文体)と和文(仮名文字が中心)が混在していることが挙げられます。

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徒然草が執筆された後の約一世紀は注目されませんでしたが、江戸時代になってからは親しみやすい古典として愛読されるようになり、その後の文化に大きな影響を与えるほどの作品となりました。

徒然草のなかには、同時代に起きた事件や人物について知る史料となる記述が多いため、歴史史料としてとても価値があります。

徒然草の成立時期については多くの説があり、主流となっているのは鎌倉時代末の 1330年8月~1331年9月頃にまとめられたとする説です。しかし、確証となるものは見つかっていません。

さらには、兼好が書いたことを疑う説さえもあるのです。

仁和寺と桜

 

 

徒然草の内容

徒然草は序段を含めて244段からなり、その内容は様々なことに及んでいます。これは、作者が歌人、能書家、古典学者などであったことによります。また、仁和寺(にんなじ)に関した説話が多く含まれています。

そして、文学上では隠者文学の一つとして位置付けられています。

それでは、徒然草の中からいくつかを選んで、内容を見てみましょう。

 

雪のおもしろう降りたりし朝

雪のおもしろう降りたりし朝、
人のがり言ふべきことありて
文をやるとて、
雪の事なにとも言はざりし返事に、
「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の
仰せらるる事、聞き入るべきかは、
かえすがえす口惜しき御心なり」
と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今はなき人なれば、かばかりのことも忘れがたし。

(第31段)

【現代語訳】

雪が見事に降った朝、
ある人へ言うべき事があって手紙を送ると、雪のことを何とも言わなった返事として、
「この雪をいかが見ると
一筆もおっしゃらないくらいの、
ひねくれた人のおっしゃる事を
聞き入られるでしょうか。
返す返すも残念なお心です」
と言ってきたのは、感慨深いことだった。
今では故人となったので、これだけのことでも忘れられない。

降り積もった雪

 

花のさかりは

花のさかりは、
冬至より百五十日とも、
時正の後、七日ともいへど、
立春より七十五日、
おほやう違はず。

(第161段)

【現代語訳】

花のさかりは、冬至から150日とも、
春分の後、7日ともいうけれど、
立春から75日とすると、
ほぼ違うことはない。

満開の桜

 

秋の月は

秋の月は、かぎりなくめでたきものなり。
いつとても月はかくこそあれとて、
思ひ分かざらん人は、
無下に心憂かるべきことなり。

(第212段)

【現代語訳】

秋の月は、限りなく素晴らしいものである。
いつでも月はこのようなものだと思い、
違いが分からない人は、
とても残念なのである。

中秋の名月

 

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徒然草の作者はどんな人?

 

徒然草の作者名

吉田兼好(よしだけんこう)は、次のように称されることもあります。

  • 卜部兼好(うらべ かねよし) [本名]
  • 兼好法師(けんこうほうし) [通称]
  • 兼好 [法名]

最初の「卜部兼好」が本名で、出家したことから「兼好法師」とも呼ばれます。

 

徒然草の作者については…

吉田兼好は、鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての官人で、歌人、随筆家でもありました。

一般的には、1283年(弘安6年)頃に生まれて30歳前後で出家したとされています。

1301年に後二条天皇(ごにじょうてんのう)が即位すると六位蔵人(ろくいのくろうど:役職名)に任じられ、従五位下左兵衛佐(じゅごいげ さひょうえのすけ:役職名)にまで昇進したことは明らかになっています。

しかし、その後の出家以降については明らかでない部分が多いのです。また、没年についても確定されてはいません。

 

作者の和歌

吉田兼好の生涯については不明な部分が多いのですが、和歌を二条為世(にじょう ためよ)に学び、「為世門の四天王」と呼ばれるほどの歌人でした。

その歌は『続千載集(しょくせんざいわかしゅう)』続後拾遺和歌集(しょくごしゅういわかしゅう)』『風雅和歌集(ふうがわかしゅう)』に合計18首が入集しています。

そこで、少しでも兼好の人となりを知る手がかりとして、私家集である『兼好法師集(けんこうほうししゅう)』から和歌を選びました。

これらと徒然草をあわせて読めば、作者の心持ちに触れることができるのではないでしょうか。

 

うちなびく
草葉すずしく夏の日の
かげろふままに風たちぬなり

 

雲の色に
わかれもゆくか逢坂の
関路の花のあけぼのの空

 

こよろぎの
磯より遠く引く潮に
うかべる月は沖に出でにけり

 

しるべせよ
田上河のあじろもり
ひをへてわが身よる方もなし

 

そむきては
いかなる方にながめまし
秋の夕べもうき世にぞうき

 

ちぎりおく
花とならびの岡のべに
あはれいくよの春をすぐさむ

 

月宿る
露の手枕夢さめて
奥手の山田秋風ぞふく

 

はかなくて
降るにつけても淡雪の
消えにしあとをさぞ忍ぶらむ

 

はかなしや
命もひとの言の葉も
たのまれぬ世をたのむ別れは

 

花ならぬ
霞も波もかかるなり
淵江のうらの春のあけぼの

 

春近き
鐘の響きのさゆるかな
今宵ばかりと霜やおくらむ

 

春の日の
長き別れにつくつくと
なぐさめかねて花を見るかな

 

春も暮れ
夏も過ぎぬるいつわりの
浮葉身にしむ秋の初風

 

降る雪に
道こそなけれ吉野山
誰踏み分けて思いいりけむ

 

最上川
はやくぞまさる天雲の
上れば下る五月雨のこと

 

仁和寺

 

 

まとめ

徒然草は古典とはいえ、とても読みやすい随筆=エッセイです。

全編を一気に読もうとすると構えてしまうかもしれませんが、各段の題名で気になるものを拾い読みするという接し方でもよいのではないでしょうか。

気軽に手にしてみると、思いのほかすんなりと読めるのが徒然草だと私は感じています。

 

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