雨月物語の【あらすじ】と作者について
日本の古典的な怪異譚というと、古くは『日本霊異記(にほんりょういき)』などもありますが、やはり『雨月物語(うげつものがたり)』が筆頭に挙げられるでしょう。
これに収められた9編の小説は、とても妖しい魅力にあふれていて、近世の日本文学の代表作ともいえるものです。
このページでは、この雨月物語のあらすじをまとめ、作者にも言及しました。できれば原作をじっくりと読んでみることをお勧めします。
目次
雨月物語のあらすじ
「白峯(しらみね)」のあらすじ
西行は崇徳院の菩提を弔うために白峯を訪れ、経文を誦し、歌を詠みました。
松山の 浪のけしきはかはらじを かたなく君はなりまさりけり
日が落ちて月が出ましたが、林が月の影すら漏らしていません。
すると、西行のことを呼ぶ声があり、異様姿の人影がこちらを向いて立っていました。
松山の 浪にながれてこし船の やがてむなしくなりにけるかな
と返歌したのを聞いて、それが崇徳院の霊であることがわかりました。
西行は、崇徳院が何故この世で迷っているのか、この世のことは忘れて仏の地位に付くようにと話しました。
これに対して崇徳院は、生前から魔道に心を傾けていて、死んだ後も世の中に祟りをもたらしていること、近いうちに大混乱を起こすつもりであることを告げます。
また、弟に政権を奪われたことが深い恨みとなっていることも話しました。
西行は、国内及び中国の王朝の例を挙げ、恨みを忘れて極楽浄土へ向かうように崇徳院に伝えました。
かつて、崇徳院は兄弟で争ったことを罪と思って反省して、書写した大乗経と歌を仁和寺へ送りました。
しかし、それらは呪詛の心ありとされて送り返されたので、魔道に回向して恨みを晴らそうとしたのでした。
さらに、「平家の栄華も、そう長くは続くまい」とも告げました。
そして大風がおき、魔王の首領となった崇徳院の異形の姿が現れました。崇徳院は配下の化鳥・相模を呼び寄せると、平氏を瀬戸内海に沈めるよう指示しました。
西行は、崇徳院の浅ましい姿を嘆いて、歌を詠みました。
よしや君 昔の玉の床(とこ)とても かからんのちは何にかはせん
すると、崇徳院の表情が穏やかになったようで、次第に姿が薄くなっていき、やがて消えていったのです。
西行は金剛経一巻で供養をすると、山を下りました。
その後西行は、このできごとを誰にも話すことはありませんでした。
世の中は崇徳院の予言した通りに進んでいきました。
その後崇徳院の墓は整備され、御霊として崇め奉られるようになりました。
「菊花の約(きっかのちぎり)」のあらすじ
戦国時代の播磨(はりま)の国に、母と二人ぐらしの左門という儒学者がいました。
左門は、旅の途中で病に倒れた宗右衛門という人物と知り合います。
左門の手厚い看護によって宗右衛門は快復し、「命をかけても御心に報いたい」と涙を流して感謝しました。
やがて二人は義兄弟の契りまで交わしました。
初夏になると、菊の節句の九月九日に再開することを約束して、宗右衛門は故郷の出雲(いずも)の国へ帰りました。
やがて九月の菊の節句の当日がやって来ると、左門は朝から家の前で宗右衛門の到着を待ちました。
しかし、いくら待っていても宗右衛門が来る気配はなく、冷たい月が寂しく照らすだけです。
そして夜更けになって、左門があきらめて家に入ろうとしました時、宗右衛門が影のような現れ方をしました。
左門は喜んでもてなそうとしますが、宗右衛門の様子がどうもおかしいのです。
左門の熱心な問いかけに、宗右衛門がようやく事情を話し始めます。
宗右衛門が故郷へ戻るとすぐに、彼はある策略によって監禁状態となりました。
逃げ出すこともできないでいるうちに、とうとう菊の節句の当日になってしまいました。
宗右衛門は「人一日に千里をゆくことあたはず、魂よく一日に千里をもゆく」という言葉にならって、自害して魂となり再会の約束を守ったのです。
語り終えた宗右衛門は、左門に別れを告げると風とともに消えてしまいました。
左門は、宗右衛門の埋葬のために宗右衛門の故郷を訪れました。そして、左門は宗右衛門の死の原因となった人物を斬って行方をくらませました。
宗右衛門と左門の事情を伝え聞いた国の主君は、二人の信義に感じ入り、左門の後を追わせることはありませんでした。
「浅茅が宿(あさじがやど)」のあらすじ
戦国時代の下総国に、勝四郎という男が暮らしていました。元々は裕福な家でしたが、勝四郎は農作が嫌いであったために次第に家は貧しくなり、親戚からも疎んじられるようになりました。
あるとき勝四郎は家の再興を計画し、田畑を全て売り払い、その金で絹の交易をするため京に上ることにしました。
勝四郎は美しく気立ても良い妻の宮木を説得し、秋には帰ることを約束して旅立ちました。
そのうちに関東は戦乱によって、世の中は混乱して乱れに乱れました。
宮木は夫の帰りを信じて待ち続けましたが、約束した秋になっても勝四郎は帰って来ませんでした。
一方、勝四郎は京で絹の商売によって大儲けをすることができました。そして関東で戦乱が起こっていることを知り、急いで故郷に帰ろうとしました。
しかし、帰る途中で山賊に襲われてしまい、持ち物を全て奪われてしまったのです。
また、人から関東の戦乱の話を聞いて、宮木が生きているとも思えず、近江へと向かいました。
ここで勝四郎は病にかかったこともあり、この地に居つくようになって七年の月日が過ぎました。
やがて近江や京でも戦乱が起き始め、故郷に帰ることにしました。
十日程かかって故郷に着いたのは、夜になってのことでした。変り果てた土地の中を探して、やっと我が家を見つけました。
家から灯がもれているのを見て、もしや宮木ではないかと思って咳払いをすると、老けてはいるが妻の「誰(たそ)」という声がしました。
そして現れたのは、自分の知っている昔の妻とは思えないほど、変り果ててしまった宮木の姿でした。
宮木は勝四郎を見て、たださめざめと泣き、勝四郎も気が動転して何も言えずにいました。
やがて、勝四郎はこれまでの経緯を、宮木は待ち続けることのつらさを語り、その夜はふたり共に眠りました。
朝になって寒さで勝四郎が目覚めると、空には白んだ有明の残月が見え、家は荒れ果てた状態となっていることがわかりました。
宮木の姿もないので家の中を歩き回っていると、元の寝所に塚がつくられており、そこに一枚の紙がありました。それには、宮木の筆跡で歌が書れていました。
さりともと 思ふ心にはかられて 世にもけふまでいける命か
この歌によって、勝四郎は初めて妻の死を実感し、大きく泣いて倒れました。せめて妻の命日を知らねばと、何とか外に出たときには日も高くなっていました。
近所には事情を知る者がいませんでしたが、やがて一人の老人を紹介してもらいました。その老人は、古くからここに住んでいる人物で、勝四郎も知っていました。
彼は、宮木が気丈にも一人で夫の帰りを待っていたが、約束の秋を過ぎて次の年の八月十日に死んだことを語りました。
その夜は、二人で泣きながら念仏をして明かしました。
そして、老人からこの土地に伝わる悲しい物語を聞くと、勝四郎は次の歌を詠みました。
いにしへの 真間の手児奈をかくばかり 恋てしあらん真間のてごなを
「夢応の鯉魚(むおうのりぎょ)」のあらすじ
近江国の三井寺の興義は、その絵の上手さで画僧として有名でした。
とりわけ鯉の絵を得意とし、夢の中で多くの魚たちと遊んだ後に、目が覚めてからその様子を見たままに絵に描いて、「夢応の鯉魚」と名付けていました。しかし、この鯉の絵だけは人から求められても与えることはありませんでした。
ある年に興義は病にかかり、七日後にはついに亡くなってしまいました。しかし、死んでいるはずなのに何故か胸のあたりに温かさがありました。
これはもしかしたら、とそのまま見守っていると、三日後に興義は生き返りました。
興義は、檀家の平の助の殿が、たった今新鮮な膾(なます)などで宴会をしているところだから、寺にお越し下さるように伝えて来なさい、と命じました。
使いの物が助の屋敷に行ってみると、まさしく宴会をしている最中でした。
やがて助がやって来ると、皆の前で興義は宴会の様子を細かに話しました。それらはことごとく屋敷の様子を言い当てていました。
その訳を尋ねられた興義は、次のようなことを話し始めたのです。
病に苦しんでいるうちに、その辛さのあまり興義は自分が死んだことにも気付がないまま、杖をついて寺を出ました。
そのうちに湖のほとりに出たので、着物を脱いで泳ぎました。そして、人よりも自由に泳ぎまわる魚のことを羨んでいると、海の神に金鯉の服を授けてもらえることになりました。
すると、いつの間にか興義は鯉の姿になっており、魚たちと思うがままにに泳ぎ回ることができました。真っ暗な夜中の水面に映っている月は、鏡の山の峰に澄んでいました。
しかしそのうちに、興義は急に餓えを感じるようになり、耐えきれずに餌に飛びついたところを釣られてしまいました。
そして助の屋敷まで連れてこられ、、料理人に刀で切られてしまうところで目が覚めたのです。
人々はこの話を不思議に思いながらも感心し、残っていた膾をすべて湖に捨てさせました。
興義は病から快復し、その後天寿を全うしました。その際に、興義の描いた鯉の絵を湖にまくと、絵の鯉が紙から離れて泳ぎ出したといいます。
興義の弟子の成光も、素晴しい鶏の絵を描くことで有名で、その絵を見た本物の鶏がこれを蹴ったと伝わっています。
「仏法僧(ぶっぽうそう)」のあらすじ
伊勢国の拝志夢然という人が末子の作之治と旅に出ました。あちこちと旅するのを楽しみとしていて、吉野の桜などを見物し、ついでに高野山へと向かいました。
高野山に着いたものの夜になってしまい、寺に泊めてもらおうとしましたが、寺の掟によって叶いませんでした。やむなく霊廟の前の灯籠堂で、念仏を唱えて夜を明かすことにしました。
そして寂しく時を過ごしていると、林のあたりから「仏法仏法(ぶつぱんぶつぱん)」という仏法僧の鳴き声が聞こえてきました。それを聞いて感動した夢然は一句詠みました。
鳥の音も 秘密の山の 茂みかな
もう一度鳴かないものかと思っていると、誰かがこちらへ来る様子です。二人は驚いて隠れようとしましたが、やって来た武士に見つかってしまいました。慌てて二人が地面に平伏していると、烏帽子と直衣の貴人が多くの武者を従えてやって来ました。
そして、彼らは楽しそうに宴会を始めました。貴人は紹巴という名の法師を呼び、古い物語をさせました。また、『風雅和歌集』にある歌の解釈に話が移り、紹巴がそれに応えました。
すると、再び仏法僧が鳴く声が聞こえたので、貴人は紹巴に歌を詠むように命じました。紹巴は夢然に、さきほどの句を殿に披露しろ、と言いました。
夢然が恐ろしく思いながらも貴人の正体を尋ねると、豊臣秀次とその家臣の霊であることが分かりました。
夢然はやっとの思いで歌を紙に書いて差し出すと、山本主殿が詠み上げました。
鳥の音も 秘密の山の 茂みかな
これを聞いた秀次は「上手い」と評価して、末句を付けるように命じました。付け句をしたのは山田三十郎でした。
芥子たき明す みじか夜の牀
紹巴は「よく作った」と褒め、秀次も「悪くはない」と興じました。
すると、家臣の淡路が急に騒ぎ出し、修羅の時が近づいていることを知らせました。今まで穏やかだった場の雰囲気も一変し、人々の顔色も変ってきています。
秀次は、部外者の二人も修羅の世界に連れていけと配下に命じましたが、これは老臣たち止められました。
そのうちに、皆の姿は消えていきました。夢然親子は、あまりの恐ろしさに気を失ってしまいました。
朝になって二人は気を取り戻し、急いで山を下りて京へ戻りました。
「吉備津の釜(きびつのかま)」のあらすじ
吉備国に井沢正太夫という人がいました。この息子の正太郎は農作が嫌いで、父の言うことも聞かず遊び歩いていました。
そこで、正太郎に嫁を迎えて身を固めさせようと、吉備津神社の神主の香央造酒の娘との縁組がまとめられました。
幸福を祈るために、御釜祓いをすることになりました。これは、釜の湯が沸きあがるときに、牛が吼えるような音が鳴ったら吉、音が鳴らなかったときは凶とするものでした。
その御釜祓いを行なうと、全く音が鳴りませんでした。しかし、香央の妻は二人の結婚を取りやめることはできないと主張し、そのまま話は進められました。
そして、嫁に来た磯良は大変できた女で、家と正太郎に良く仕えて非の打ち所がありませんでした。正太郎も磯良のことをよく思い、仲良く暮らし始めました。
しかし、いつの頃からか袖という遊女との浮気が始まり、家に帰らなくなってしまいました。正太郎の父は、息子を叱って家に閉じ込めました。
磯良は正太郎をこまめに世話しましたが、正太郎は磯良を騙して金を奪い、袖と逃げてしまいました。このあまりの仕打ちに磯良は病気かかり、手の施しようがない状態になりました。
一方、正太郎と袖は、袖の親戚の彦六の厄介となり、彦六の隣の家で新たな生活を始めました。しかし、すぐに袖の様子がおかしくなり、何かに憑かれたかのように苦しみ出しました。
これはもしや磯良の呪いではと思っているうちに、看護の甲斐もなく七日後に袖は亡くなってしまいました。
正太郎は悲しみつつも菩提を弔い、日が暮れると墓参りをするようになりました。そして、いつものように墓参りをしていて若い女に気が付きます。
話を聞いてみると、仕えているる家の主人が亡くなり、重い病にかかってしまった奥様の代わりに墓参しているということでした。
奥様が美人であると聞いた正太郎は、奥方と悲しみを分かち合いたいと申し出、訪問することになりました。
案内された家で対面した奥様とは、まさしく磯良でした。血の気のない姿の恐ろしさのあまり、正太郎は気絶してしまいました。
しばらくして気が付くと、そこは家ではなく三昧堂でした。慌てて家に帰った正太郎は、陰陽師に頼ることにしました。陰陽師は、これから四十二日間物忌みをし、その間は一歩も外に出ては行けない、と言いました。
それからは、夜になると「あなにくや…」という恐ろしい女の声がして、その恐ろしさは日ごとに増していきました。
そして、やっと四十二日目の夜を迎えました。
やがて、正太郎は「夜も明けたので、しばらく見ていない兄上の顔を見て語りたい。目を覚まして下さい、私も外に出ます。」と壁越しに彦六に呼びかけました。
彦六が戸を半分もあけないうちに、正太郎の「あなや」という叫び声がしました。慌てて外に出ると、外はまだ暗く月も出ています。
正太郎の家に残されていたのは、壁の大きな血のあとと、軒にかかっている髻(もとどり)だけでした。そして、正太郎の行方はついに分らずじまいでした。
「蛇性の婬(じゃせいのいん)」のあらすじ
紀伊国に大宅竹助という網元がいました。その三男の豊雄は、優しいのですが家業を好まない厄介者でした。
ある日、にわか雨にあって漁師小屋で雨宿りしていると、二十歳くらいの女が侍女を連れて小屋に入ってきました。この女はとても美しく雅やかだったので、豊雄は魅かれました。
そこで、豊雄は自分の傘を女に貸し、後日引き取りに訪ねることにしました。女は「県の真女児」と名乗りました。
豊雄はその晩、真女児の家を訪れて接待を受けるという夢を見ました。そこで早速、真女児の家を実際に訪ねることにしました。
そこは、夢で見たのと全く同じ立派な屋敷で、少し怪しみましたが真女児と楽しい時を過ごしました。真女児は夫を亡くしたことを話して豊雄に求婚し、豊雄は迷いましたがそれを承諾しました。そして、宝物の太刀を貰って家に帰りました。
しかし、豊雄の兄がその太刀は権現様の御宝殿から盗まれたものであることに気付きました。そこで、豊雄は大宮司につき出されました。
豊雄は県の家の件を説明すると、大宮司の館の武士達と共にその家に向かうことになりました。
県の家を探し出して着いてみると、そこは荒れ果てていました。武士の中で豪胆な者が中に入っていくと、花のように美しい女がいました。近寄って捕えようとすると、地が裂けるような落雷が鳴り響き、女はいつの間にか姿を消していました。
そして、そこには盗まれた数々の宝物がありました。これらは妖怪の仕業であるとされて豊雄の罪は軽減されましたが、牢獄へ入って百日後に釈放されました。
その後、豊雄は大和国の姉の商家で暮らすことになりました。
すると、そこへ真女児と次女がやって来ました。真女児は、宝物を盗んだのは前の夫であると弁解しました。はじめは真女児を恐れていた豊雄でしたが、涙を流しながら話す姿や女らしい振る舞いに、次第に心を許すようになりました。
そして、ついに豊雄は真女児と結婚して夫婦になりました。
三月に、豊雄夫婦は義兄と一緒に吉野へ旅をしました。
とある僧院で夕食をとっていると、一人の老人が近づいて来ました。この老人が真女児と侍女の正体をみやぶると、二人は滝に飛び込み、水が吹きあがり雨が降りだす中、姿を消してしまいました。老人は、真女児の本性は邪神であり、豊雄に注意するよう教えました。
その後、豊雄は紀伊国に帰り、富子を嫁に迎えました。
そして二日目の晩に、富子が真女児に憑りつかれてしまいました。姿は富子ですが、真女児の声そのものが豊雄をなじりました。豊雄は死ぬような思いをして夜を過ごしました。
このことがあって、鞍馬寺の僧に助けを求めることにしました。しかし、自信満々のこの僧は、真女児に敵わず死んでしまいました。
そこで、今度は道成寺の法海和尚に助けを求めました。和尚は袈裟を与え、駆けつけるまで真女児を取り押さえておくように指示しました。
豊雄がその袈裟で真女児を押さえていると、やがて法海和尚がやって来ました。和尚が念じた後に袈裟を取ってみると、気を失った富子と三尺ほどの白い蛇がいました。
和尚はこの蛇と、さらに現れた小蛇を捕えて鉢に入れ、袈裟で封じた上で埋めました。
その後、富子は病気で亡くなり、豊雄はつつがなく暮らしたと伝わりました。
「青頭巾(あおずきん)」のあらすじ
改庵禅師が旅に出て、下野国の富田の里へ着いたときに日が落ちました。
大きな家に立ち寄って宿を求めようとすると、禅師を見た人々は「山の鬼が来た」と騒ぎ立て、女子供はあちこちに隠れてしまいました。
禅師が怪しまないように言うと、主人は非礼を詫びて迎え入れ、夕食を勧めてもてなしました。そして、次のような話を始めました。
この里の上の山に一軒の寺があって、学問修行の評判が高い阿闍梨が住んでいました。灌頂の戒師を務めて越の国から戻りましたが、そこから一人の童子を連れてきました。そして、その童子を深く愛するようになりました。
童子は今年の四月頃に病かかり、手をつくした甲斐もなく亡くなってしまいました。悲嘆した阿闍梨は荼毘に付そうとも埋めようともせず、亡骸とともに日々を過ごしました。
そのうちに精神を病んで、死肉をすすり骨を舐め、ついには食い尽くしてしまいました。そして、夜な夜な里に下りては墓をあばき、屍を食らうようになってしまったので、人々は鬼と恐れるようになったのです。
これを聞いた禅師は、鬼となった阿闍梨の心を元に戻す決心をしました。禅師は山寺を訪れて、一夜の宿を頼みます。寺の主の僧は、「御僧の心にお任せいたす」と言うと、何も言わなくなってしまいました。
夜が更けて月夜となり、子の刻となった頃に、主の僧が禅師を探し始めました。しかし、禅師の前を何度走り過ぎても、全く禅師に気が付きません。駆けたり踊り狂ったあげく、ついには疲れて倒れてしまいました。
夜が明けて、主の僧は酔いから覚めたようになり、禅師が元の位置にいるのを見て黙りこくってしまいました。禅師が自分の肉を食べてもよいとまで言うと、主の僧は教えを乞いました。
禅師は主の僧を石の上に座らせ、自分の被っていた青頭巾を被らせました。そして、証道の歌の二句を授け、意味を考えるように言うと山を下りました。
江月照松風吹
永夜清宵何所為
翌年の十月、禅師は旅の帰りに富田の里を通り、一夜の宿を借りた家へ立ち寄りました。主人に話を聞くと、鬼が山を下ったことは一度もないということでした。
禅師が山の上の寺に行ってみると、とても荒れ果てていました。以前に主の僧を座らせた石のあたりを見ると、影のような人が蚊の鳴くような声で、授けた二句を唱えていました。
禅師が一喝して禅杖で頭を打つと、たちまち主の僧のは消え失せてしまい、青頭巾と骨だけが草葉の上に散りました。
その後、禅師はこの寺の住職となり、今もこの寺は尊く栄えているといいます。
「貧福論(ひんぷくろん)」のあらすじ
陸奥の国の蒲生氏郷の家臣に、岡左内という武士がいました。富貴を願う心が他の武士とは違い、倹約することを家の掟としたので、年を重ねるごとに富み栄えていきました。
家の下男が黄金一枚を持っていることを聞くと、その男を呼んで褒めて、十両の金を与えました。
人々はこれを聞いて、佐内は当世でも稀な奇人だと言いはやしました。
その夜、左内の枕元に小さな翁が現れました。その翁は黄金の精霊で、今日下男を褒めたことに感心して姿を見せたのでした。そして、佐内に語りはじめました。
- 富んでも驕らぬのは大聖人の道理
- 千金の子は市にも死せず
- 富貴の人は王者の楽しみを同じうす
- 金の徳を軽んじては賢からじ
これに興を覚えた佐内は、富と貧しさは仏教の宿報や儒教の天命によるものなのかを翁に尋ねました。
すると翁は、次のように言いました。
- 私は神でもなければ仏でもなく、ただ非常な物
- 非常の物として、人の善悪に従うべきいわれはない
- 富貴の道は技術なので、上手な者は良く集め、下手なものは簡単に失う
- 私は仏教の前世も知らず、儒教の天命にもこだわらない
左内はますます興に乗じ、もう一つ尋ねました。「誰が天下を統一するのか、また、誰の味方をするのか」
翁はこれに対して、富貴をもって武将を論じました。そして、豊臣秀吉の政治は長くなくとも、万民それぞれの家が長く栄えるのも近いと言いました。
最後に、次の八字の句を詠みました。
堯蓂日杲 百姓帰家
遠くの寺の鐘が鳴り、すでに夜が明けていました。そして、翁はかき消したように見えなくなってしまいました。
雨月物語の作者はどんな人?
雨月物語の作者の上田秋成(うえだ あきなり)は、江戸時代後期の読み本作者、歌人、俳人、茶人、国学者です。秋成に関しては記録が残っていますので、年代順にみていくことにしましょう。
【上田秋成の生涯】
1734年 大坂の曾根崎で、松尾ヲサキの私生児として生まれました。
1737年(4歳) 紙油商・嶋屋の上田茂助の養子となり、仙次郎と呼ばれました。
1738年(5歳) 疱瘡にかかり、手の指が不自由になりました。
1751年(18歳) この頃から俳諧に遊ぶようになり、戯作本や和漢の古典などを耽読しました。
1766年(33歳) 浮世草子『諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)』を上梓。国学者・加藤宇万伎に師事しました。
1767年(34歳) 『世間妾形気(せけんてかけかたぎ)』を上梓。
1771年(38歳) 嶋屋が火災により破産し、加島稲荷の神職方に寄寓して、医学を学び始めました。
1773年(40歳) 加島村で医者を始めました。
1786年(53歳) 思想、仮名遣い、古代音韻などにおいて、本居宣長との間で論争がありました。(日の神論争)
1787年(54歳) 大坂北郊淡路庄村に隠退しました。
1790年(57歳) 左眼の視力を失いました。
1798年(65歳) 右目も失明しましたが、治療によりやや回復しました。
1808年(75歳) 短編小説集『春雨物語』稿。書簡文集『文反古(ふみほうぐ)』上梓。
1809年(76歳) 6月27日になくなり、西福寺に葬られました。
関 連 ペ ー ジ