三橋鷹女の俳句 50選 -有名な作品・代表作から厳選- 【読み物】
明治生まれで昭和の時代に活躍した女流俳人・三橋鷹女(みつはし たかじょ)は 、橋本多佳子・中村汀女・星野立子とともに「四 T」と呼ばれました。
その 4人のうちで、繊細でありながらも力強さがあり、前衛的な作風も持っていた鷹女は、一人突出した存在であるといえるでしょう。
このページでは、三橋鷹女の俳句を有名な作品・代表作を中心に、独特の魅力と美しさを保ち続けているおよそ 50句ほどを読んでゆきます。
三橋鷹女の美感
まずは、女性らしく繊細な印象を受ける句から読んでゆきましょう。
ひとひらの雲ゆき散れり八重桜
春の季語の「八重桜(やえざくら)」と「ひとひらの雲」という組合せと生き生きとした描写によって、美しくもはかなげな光景が作り出されています。
雲は去ってゆき、桜も散ってゆくという流れが自然に展開されていて、滅びてゆくものに美を感じる日本人の心をくすぐります。
風鈴が一つしかない眼に赤い
「風鈴」が夏の季語で、「一つ」であることによって、鮮やかな赤の風鈴がある光景が目に浮かんできます。
そして、下五の「眼に赤い」によって、この赤さが一層強められていると感じられます。
秋風や水より淡き魚のひれ
水の色よりも淡いという「ひれ」に、はかなげな美しさを感じさせる句です。
この句には、
南風は水面を吹けり水底も
という鷹女の作品に通じるものがあります。
秋風の及ばないはずの水の中で、ひれが風に吹かれて動いているかのような感覚にとらわれます。
三十年前にもここに鰯雲
「鰯雲(いわしぐも)」が秋の季語。
鷹女が見た、あるいは思い描いた光景がどのようなものであったのかは想像できませんが、このような感慨を持つことは誰にでもあるはずです。
「懐かしい」という感情が湧きおこり、過ぎ去った年月への哀惜をかき立てられる作品です。
寒満月こぶしをひらく赤ん坊
「寒満月(かんまんげつ)」が冬の季語。
しんとしていて、寒さ極まる冬の夜空の情景が広がってくる句。
月が赤ん坊の手を開かせたのか、あるいは、赤ん坊が開いた手で月をつかもうとしているのか。
と考えると、小林一茶の
名月をとつてくれろと泣く子かな
という句が思い浮かびますが、一茶の句とは対照的に「冷たさ」が感じられる作品です。
三橋鷹女の艶めかしさ
初夢のなくて紅とくおよびかな
「初夢」が新年の季語。
「紅(べに)」と「および(=指)」が何ともいえないほどの艶めかしさを醸し出している作品です。
そして、およびで紅をといているのは、もちろん美しい鷹女であり、その指は薬指のように思われます。
二月来るながき眉毛を吾がひけば
この句からも目に浮かんでくるのは、鏡台に向かって眉を引いている鷹女の美しい顔です。
化粧をしている姿がとても様になるのが、日頃から着物で生活をしていた時代の女性です。
人妻は髪に珊瑚や黄雀風
この句の季語は「黄雀風(こうじゃくふう)」で夏の季題です。
黄雀風は、梅雨の時期に吹く湿気を含んだ南東の風で、この風によって海の魚が黄雀(=すずめ)になるという言い伝えが中国にあります。
この黄雀風が珊瑚を飾った髪に吹きつけているという、何とも絵になる情景が詠まれた句です。
また、「人妻」という語によって、一層の艶めかしさが増していると思われます。
同様に、
虹消えて了へば還る人妻に
という句も、「人妻」が詠み込まれることによって、艶めかしい印象が強められています。
セルを着て静脈青きかひなかな
セルは毛織物の一種で、肌ざわりがよいので初夏に着る衣類として好まれます。
セルを着る時期には、今まで露出することもなく白かった肌もあらわれるようになり、かいな(=腕)の静脈(じょうみゃく)が目についたことを詠った句です。
風鈴の音が眼帯にひびくのよ
この句のように、口語を駆使して奔放な創作をするのが三橋鷹女という俳人の特徴です。
風鈴の音が、耳ではなく眼帯(⇒目)と結びつけるところが斬新な印象を与える作品です。
うたたねの唇にある鬼灯かな
鬼灯(ほおずき)の実は、口に入れて吹いて鳴らす子供の玩具(おもちゃ)といえるものです。
これを口にしたまま寝てしまった鷹女の姿を思い浮かべるのは、何とも艶めかしくて楽しいものです。
秋浪に口紅塗れよもそつと濃く
「もそつと」は「もう少し」の意。
この言葉によって、「口紅塗れよ」の表現がやわらかくなっています。
これらの作品から思い浮かぶのは、鷹女の美しさと「妖艶」という言葉です。
三橋鷹女の強さ
鷹女の残存する写真からは、凛とした美しさとともに「強さ」のようなものが感じられます。
そして、彼女の作品にも力強さは満ちあふれています。
日本の我はをみなや明治節
明治32年生まれの鷹女にとって、明治節(明治天皇の誕生日の11月3日)は彼女の矜持そのものであったでしょう。
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
「鞦韆(ふらここ、しゅうせん)」とはブランコのことで、春の季語。
有島武郎(ありしま たけお)の著作「惜しみなく愛は奪ふ」をふまえての句で、繰り返される「べし」によって強さが増幅されています。
白露や死んでゆく日も帯締めて
この句からも、鷹女の矜持と強さが強く感じられます。
夏の暑い日だからといって洋装をするというようなことは考えなかった人でしょうし、ましてや死にゆく日においても、このような強さを持ち続けていたのです。
秋の季語である「白露(しらつゆ)」が俳句に美しさを添えています。
笹鳴に逢ひたき人のあるにはある
冬の鶯の地鳴きが「笹鳴(ささなき)」で、冬の季語です。
古典和歌のように「逢いたい」という気持ちを胸に思い悩むのではなく、逢いたい人はあっても(それ以上のことはない)という表明がこの句の根底にあるように思えます。
三橋鷹女の好悪
鷹女の俳句はとても力強く、物事の好き嫌いにについても、気持ちが良いくらいに言い切っているものが数々あります。
日の昏れてこの家の躑躅いやあな色
この句からも鷹女の奔放さが感じられるとともに、他人の家の花であっても遠慮なく「いやあな」と表現しているところも彼女の句の魅力です。
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
この句は、鷹女の強さと好悪が最大に込められている作品といえるでしょう。
ここまではっきりと言い切れることに感心するとともに、ある種の気持ち良ささえ感じられてきます。
吾が好きは犬と牡丹よ水を打つ
この句では、めずらしく鷹女の「好き」なものが挙げられています。
この他に好きな花としては、月見草、夕顔、ポンポンダリヤなどの名を鷹女は挙げています。
初嵐して人の機嫌はとれませぬ
鷹女の矜持からすれば、人の機嫌をとるなどということは、有り得ないこととしか言えません。
俳人の加倉井秋をが鷹女と二人で歩いていた折に、やはり俳人の渡辺桂子と細見綾子の家が近くにあったため「御紹介しますから訪ねてみませんか」と言うと、「何で私が訪ねなければなりませんの」と鷹女に返されたというエピソードもあります。
つはぶきはだんまりの花嫌ひな花
「つはぶき(石蕗)」が冬の季語。
「だんまりの花」で終わらないところが鷹女の俳句です。
ここまで言い切らないと気が済まないといった勢いが込められた句です。
笹子鳴くこの帯止が気に入らぬ
やはり「嫌ひなものは嫌ひなり」の鷹女らしさが存分に感じられる句です。
これらの作品のように、「いやあな ~」「嫌ひなり」「気に入らぬ」などを句に詠み込む俳人は、そうはいないでしょう。
三橋鷹女の憂い
力強さを持ち、好き嫌いがはっきりしていた鷹女であっても、同時に憂いがあったのは当然のことでしょう。
春の夢みてゐて瞼ぬれにけり
夢見たのは瞼(まぶた)が濡れるようなものであったのか、それとも、はっきりと覚えてはいないが悲しさの感覚だけが残っているのか。
物憂げな様子が目に浮かび、どことなく艶めかしさをも感じられる作品です。
びろうどの枕に寝たり春の夢
この句も春の夢が詠まれていて、「びろうど」と「春の夢」が絶妙な春の雰囲気を作り出しています。
春は侘し場末にひとり見る映画
どうして一人で映画を見ることになったのか、それとも敢えて一人で見たかったのか。
むしろ、侘しさを感じてみたいために一人を選んだかのような気もしてくる句です。
みんな夢雪割草が咲いたのね
この作品も口語による奔放な作風が鷹女らしを感じさせる作品で、発表された昭和12年にあっては、さぞ斬新だったことでしょう。
生ビールあふりてわが世かなしめる
強さを感じることが多い鷹女の作品群ですが、めずらしく「かなし」という言葉が含まれている句です。
それでも、「あふりて」という語によって強さが完全に失われてはいない点に注目したいところです。
夏痩の君もかなしき似顔絵師
前に揚げた夏痩せの句と違い、この作品からは憂いている鷹女の姿が思い浮かびます。
やはり、「かなし」が詠まれているとめずらしく感じられます。
夏痩せはきんぎよを飼へりおとなしく
この句は、力強さという点においては「夏痩せて嫌いなものは嫌いなり」の対局にある作品といえるでしょう。
三橋鷹女の変身
鷹女の作品で「変身」に関わるものは多くみられますが、ここでは2つだけ取り上げておきます。
鷹女変じて何になるべし黄雀風
前出の「人妻は髪に珊瑚や黄雀風」においては、ただ風に吹かれているだけの描写ですが、この句とあわせて読むと、鷹女らしさを強く感じ取ることができます。
鷹女の作品の中でも、かなり有名である
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
という句でも、自身が他の何物かへと変わることを詠んでいます。
この句の題材としては能の「夕紅葉」を挙げることができますが、単にそれをなぞって俳句にしたというものではないはずです。
鷹女はやがて「老い」や「死」を詠むことによって、自分の内面を突き詰めてゆくようになりますが、この「変身」を通じてこそ成立しているのではないでしょうか。
三橋鷹女の老い
人の定めともいうべき「老い」に関わる句も、鷹女は多く生み出しました。
老いながら椿となって踊りけり
先に述べた「変身」の意味合いも含んだ作品で、「椿(つばき)」が春の季語です。
初出が昭和26年なので、鷹女はまだ 50を超えたばかりですが、「老い」や「死」といった表現が目につくようになってきます。
椿落ち椿落ちこころ老いゆくか
次々と落ちてゆく椿の花に自身を重ね合わせている句ですが、「椿落ち」の繰り返しが絶妙なリズムをつくりだしています。
菜の花やこの身このまゝ老ゆるべく
菜の花を見ても老いを感じてしまう鷹女の繊細な感性が感じられる作品です。
同じ「菜の花」を詠んだ与謝蕪村の句
菜の花や月は東に日は西に
が想い起こされますが、絵画的ともいえる蕪村の句とは対照的に、鷹女の目はあくまで自分の内面へと向けられています。
藤垂れてこの世のものの老婆佇つ
「この世のもの」という表現が、儚さや幽かさといった雰囲気を作り上げています。
さらには、「この世」の向こうにあるものをも想像させられるような気がしてくる作品です。
うつし世に人こそ老ゆれげんげ咲く
この句においても、「老い」と花の「げんげ」が共存しています。
雛の夜は雛に仕へて老いざりき
この句では「老いざりき」と否定形が用いられているものの、「雛」と「老い」が結び付けられています。
百日紅われら初老のさわやかに
この句からは明るさを感じることもできますが
百日紅何年後は老婆たち
となると、どうしても暗いイメージを持たずにはいられません。
今は美しい花が咲きほこっていても、やがて老木となってしまうという、人と何ら変わることがない定めを詠んでいると解します。
また、いつまでも鷹女の俳句には動植物への変身や同化といった傾向は失われてはおらず
いまは老い蟇は祠をあとにせり
老鶯や泪たまれば啼きにけり
という作品の蟇(がま)や老鶯(ろうおう)は、やはり鷹女自身として詠まれているのでしょう。
三橋鷹女と死、死後
「老い」に関して自己の内面へと深く踏み込んでいった鷹女は、さらにその先の「死」と「死後」の世界をも俳句で表現してゆきます。
それらには「幽玄」という言葉がふさわしい美しさを持ったものです。
死もたのし二ン月穹の蒼き日は
澄み切った真冬の蒼い穹(そら)から、鷹女は美しさだけではなく、死をも感じとっています。
薄氷へわが影ゆきて溺死せり
薄氷(うすらい)が春の季語。
春に薄く張った氷の上に自分の影がのびてゆき、その影が死に至ったというイメージを表現した作品と解します。
花辛夷盛りの梢に縊れたし
辛夷(こぶし)が春の季語。
美しく白い花を咲かせるものであっても、鷹女にとっては死と結びついてしまうのでしょう。
をちこちに死者のこゑする蕗のたう
蕗の薹(ふきのとう)から死者の声をうかがう感性も、鷹女ならではのものです。
わが死後やかくて夜更けの走馬燈
夏の季語である「走馬燈(そうまとう)」からは、お盆の時期ということもあり、確かに死後のイメージが強く感じられます。
白骨の手足が戦ぐ落葉季
句集のタイトルでもある「白骨」が詠み込まれている句。
秋も終わろうかという頃に、しきりと葉を落としている木の枝を「白骨の手足」と見立てている作品と解します。
踊るなり月に髑髏の影を曳き
白骨や髑髏(どくろ)といった言葉を使いながらも、けして美しさを失うことなく、幻想的でさえある世界を見せてくれるのが三橋鷹女の作品です。
次の句は、それをあらためて認識させてくれます。
青ざめて八ツ手が咲けばあの世めく
「八ツ手」が冬の季語。
八ツ手の茎と花は、前出の「白骨の手足」に通じるものがあると感じてしまいます。
夜は夜の八ツ手の手毬死者の手毬
この句も「八ツ手」が詠まれていますが、「夜は夜の」と「八ツ手の手毬死者の手毬」の繰り返しがあり、何故か私には17文字ではない(17文字より多い字数)ように感じられます。
大寒の死霊を招く髪洗ひ
本来「髪洗ひ」は夏の季語ですが、この句では「大寒」を用いて冬の句としています。
寒さが極まる大寒と死霊とが、違和感なく調和している作品です。
三橋鷹女の句集
- 『向日葵』 (昭和15年)
- 『魚の鰭』 (昭和16年)
- 『白骨』 (昭和27年)
- 『羊歯地獄』 (昭和36年)
- 『橅』 (昭和45年)
- 『三橋鷹女全句集』 (昭和51年)
三橋鷹女の略歴
- 明治32年12月24日 千葉県に生まれる
- 大正 5年 成田高等女学校を卒業
- 大正11年 俳人であった歯科医師・東謙三と結婚
- 昭和 4年 「鹿火屋」に入会し原石鼎に師事
- 昭和 9年 「鹿火屋」退会、「鶏頭陣」に入会
- 昭和13年 「鶏頭陣」を退会
- 昭和28年 同人誌「薔薇」に参加 (昭和32年に終刊)
- 昭和33年 同人誌「俳句評論」に参加
- 昭和42年 「俳句評論」を辞す
- 昭和44年 会員誌「羊歯」を創刊、同年10号で「羊歯」を辞す
- 昭和47年 1972年4月7日 死去
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